
我如古盛次の野球人生に密着
2010年、沖縄県勢として史上初の夏の甲子園優勝、そして史上6校目の春夏連覇という偉業を成し遂げた興南高校野球部。
その黄金時代を主将として牽引したのが、我如古盛次さんだ。
あれから十数年の時を経て、今、彼の口から語られるのは、栄光の影に隠された知られざるストーリー。
野球人生の原点から、興南高校進学を決めた瞬間、そして甲子園で頂点を目指す日々まで。
3回にわたる特別インタビューコラムの第1回は、すべてを決定づけた「1枚の新聞記事」との出会いから始まる。
すべては1枚の新聞記事から始まった
沖縄県名護市で育った我如古さんにとって、少年時代は「野球かサッカーしかない田舎」だったという。
柔道にも誘われたが、夢中になったのはバットとグローブ。
小学4年生から本格的に野球を始め、人が少ない地域だったため、すぐにポジションをもらえた。
中学では憧れの公式野球に挑戦するためポニーリーグに入団するも、練習場所が遠く、最後の夏は軟式野球部に戻るなど、決してエリート街道を歩んできたわけではない。
そんな中学時代、彼の運命を変える出来事が起きる。
体育の先生が持ってきた一枚の新聞記事。そこに書かれていたのは、当時の興南高校我喜屋優監督の独自の野球哲学だった。
「勝つためだけの野球はしない」
この言葉に我如古さんは心を奪われた。「私生活だったり、野球の技術とか、勝つためだけの野球はしないという記事が書いてあって、面白いなと思った」と当時を振り返る。
名門校への進学といえば、華やかなスカウトやセレクションが一般的だが、我如古さんは自らの意思で興南への進学を決意。
「みんなゼロスタートで戦える面白い制度だと思った」と、そのモチベーションを語った。
衝撃を受けた興南の練習初日と「継続力」が生んだ自信
しかし、念願叶って入学した興南高校で、我如古さんを待っていたのは想像をはるかに超える現実だった。
沖縄県各地から集まってきたのは、
「地区の誰誰といえば誰もが知っているスーパースターばかり」「同級生のレベルの高さに心折れた」と、当時の衝撃を素直に明かす。
特に、チームのエースとなる島袋洋奨投手については「線が細いのに、脱いだらドラゴンボールみたいな背中」と驚きのエピソードも披露。練習初日に周りの圧倒的な体格と肩の強さを目の当たりにし、自身が目指していたピッチャーの道をすぐに断念するほどだったという。
だが、我如古さんはここで終わらなかった。
「ただの練習をしているだけじゃ無理だと気づいた」
彼は自らに誓いを立てる。
「高校生活は毎日100本バットを振ろう」
その継続力こそが、我如古さんのレベルを引き上げていく。
我喜屋監督の指導も、野球の技術だけでなく人間力に直結していた。
「散歩もご飯も五感を研ぎ澄ませるため」
そう信じて取り組むことで、彼の感覚は本当に研ぎ澄まされていった。
そして、ひたすらにバットを振り続けた日々が、ついに実を結ぶ瞬間が訪れる。
「自分の決めたことを継続した時、実際にプレーで実感できた。これならやれる、通用する、と感じた」
「不思議な感覚を身につけた時は、うわぁっていう感覚でした」と、高校野球での自信を力強く語った我如古さん。
ただの野球技術ではない、人間力を磨くことで手に入れた「自信」
この特別な感覚が、彼の高校野球を特別なものに変えていく。
次回は、甲子園優勝という大きな目標を掲げ、チームがひとつになっていく過程、そして数々の伝説的なエピソードについて掘り下げていく。
我如古さんが主将として、どのようにチームをまとめ上げたのか。
そして、栄光の裏側で彼らが経験した苦悩とは。
第2話に続く>>>