【第四話】前田幸長 「星野仙一との出会いが僕を変えた」

前田幸長の野球人生に密着

 

元プロ野球選手で、都筑中央ボーイズ会長として次世代の育成に情熱を注ぐ前田幸長氏。
激動のプロ野球人生を歩んできた彼が、最終話では指導者としての哲学、そして野球への尽きることのない想いを語る。

中日→巨人 FA移籍の真相と“魔球”ナックル誕生秘話

中日ドラゴンズで活躍した後、前田氏はFA権を行使し巨人へ移籍する決断を下す。
当時の球界には、「自分より年上の実績のある選手が、これくらいの年俸だよって言われると、年が下だと、ここまでしか行けないという暗黙のルールがあった。これを超えちゃいけないよって」という、現代では考えられないような慣例が存在したという。
中日球団から一度は複数年契約の提示があったものの、後に「やっぱりこういうとダメだって、後から下げられた」と明かす。
この経験が、彼のFA移使を決定づける。「あっ、じゃあもういいですと。僕はじゃあFAします!っていうことで」。そして、その決断の決め手となったのは、原辰徳監督からの直接の誘いだった。「原さんから“ジャイアンツで一緒にやろうじゃないか”と直接声をかけてもらったこと」。さらに、「やはり巨人のユニフォームにはどこかで憧れがあった」と、幼い頃からの憧れも移籍を後押ししたと吐露する。

巨人では主にリリーフとして活躍した前田氏。彼の代名詞ともなった「魔球ナックル」の誕生秘話も披露してくれた。
「ナックルはロッテ2年目ぐらいから落ちるボールが必要だと思って投げ始めた」。
プロとして生き残るために「最低限落ちる球が必要」と感じ、習得に励んだナックルボールが、彼の野球人生を大きく支えることになる。
「ナックルボールが大きく人生に役立った」と、その重要性を語った。

次世代を育てる独自の指導哲学「怒鳴るのではなく、伝える」

プロ野球引退後、次世代の育成に尽力する前田氏の指導者としての哲学は明確だ。
「怒鳴って叩いて野球が上手くなるわけはない。伝えていくもので彼らが吸収していけばいい」
都筑中央ボーイズでの指導方針については、
「正解はない。やってみて自分に合うものを見つけなさい」と、選手自身が考え、行動することを促す。
コーチと選手の対話を重視し、「うちは皆がなんでも聞ける雰囲気作りを意識している」と語る。

「年に1回ぐらいしか大きな声は出さない」という前田氏の指導。

ダメな部分だけを指摘するのではなく、「良くなるために説明してあげることが大切」と力を込める。
選手の可能性を最大限に引き出すための、温かくも的確な指導法がそこにはあった。

前田氏は「まだまだ元気なうちは頑張りたい」と今後の活動への意欲を示した。
プロ野球選手として輝かしいキャリアを築き、引退後も野球への尽きることのない情熱を燃やし続ける前田幸長氏。
彼の野球人生は、多くの人々に夢と感動を与え、そして今、次世代へとその想いを繋いでいる。

 

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