【第1話】横浜高校主将が語る、野球の原点と”孤高”だった中学時代

小川健太の野球人生に密着

横浜高校野球部の主将として、2008年夏の甲子園ベスト4に導いた小川健太さん。

現在は日本未来スポーツ振興協会代表理事を務める。
活動としては、各家庭における経済的事情・環境的な事由により、スポーツに取り組むことが難しい子どもたちへ、スポーツを始める為のきっかけづくり、続ける為のサポートとして用具提供を行っています。
そんな彼の波乱に満ちた野球人生に密着し、ルーツを辿っていきます。

「世界一のバッター」を目指した幼少期からの異次元の努力

小川さんの野球人生の原点は、意外な家庭環境にありました。

小学3、4年生の頃に両親が離婚し、以降は母親と姉との3人暮らし。
勉強が得意な姉と、スポーツ一筋の自分――真逆の道を歩んだ兄弟の姿が浮かび上がります。
じっとしていられない性格を見かねた親の勧めで野球を始めたという。
「本当はサッカーがやりたかったのに、連れて行かれたのは野球チームだったんです」と、そのユーモラスな出会いを振り返ります。

しかし、一度野球と出会った小川少年の情熱は計り知れません。
小学生の頃からバットを体の一部のように肌身離さず持ち歩き、畳に穴が空くほど素振りを繰り返す日々。
「世界一のバッターになる」という明確な目標を胸に、夜9時、10時を過ぎてもバットを振り続ける規格外の“努力論”を披露します。
寝る前には「これじゃ世界一になれない」と危機感を覚え、さらに素振りを重ねたという。
「低い目標設定はしたことがない。常に一番上を狙っていた」と語る小川氏の原動力は、母親から一度も褒められたことがなかったという、"認められたい"という純粋な思いでした。

強豪の中本牧リトルシニアへ進む

中学時代には、名門・中本牧リトルシニアに所属し、才能はさらに開花。
「お前らと友達になりに来たわけじゃない。世界一のバッターになるから、そのために入ってるんだ」とチームメイトに堂々と宣言したというエピソードは、当時の"超生意気だった"自分を象徴しています。
「別に友達にならなくていい」という当時の信念には、ただひたすら頂点を目指す"孤高"の姿勢と、野球への純粋な野心、そして揺るぎない覚悟が感じられます。

自身で「今思うと、当時の自分はかなり生意気だった。あのまま大人にならなくて良かった」と笑いながら振り返ります。
そして、中学時代には孤立することはなかったものの、「どっちかというと高校の時の方が孤立していた」と、横浜高校入学後に直面した苦悩を語ってます。

次回、第2話では、中学日本代表(U15)のメンバーとしてメキシコの世界大会に出場したエピソード、横浜高校へ進学した舞台裏はいかに――。

 

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