
小川健太の野球人生に密着
野球が教えてくれた「謙虚さ」と「社会性」
前回、横浜高校での壮絶な高校野球生活と、甲子園での重圧について赤裸々に語ってくれた小川健太さん。
連載最終回となる第4話では、彼がどのようにプロ野球選手への夢に終止符を打ち、野球用具提供という新たな道を見出したのか、その野球人生の転機に迫ります。
「高校を引退してからも、もともと大学にもあまり行く気はなく、プロ一本で考えていた」と、当時の揺るぎない決意を振り返る小川さん。しかし、「全然どこからも声がかかっていなかった」という現実と向き合いながら、母親の勧めや姉の存在、そして奨学金制度が決め手となり、明治大学への進学を決意します。
「正直、大学野球の存在自体知らなかったくらい」。
そう語るほど、プロへの道しか見えていなかった小川さんですが、強豪・明治大学での経験は、自身の実力不足を痛感させると同時に、新たな気づきを与えました。
「甲子園に出られたのもほぼ運」「大舞台で活躍できる選手がプロに行く」と、プロ野球選手になることの難しさを客観的に分析できるようになります。
「世界一のバッターになる夢は、高3の夏の甲子園で完璧に折れた」
それでも「やめなきゃいけないのにやめられない状態が25歳まで続いた」と、その壮絶な葛藤を明かします。
しかし、大学野球や社会人野球を通じて、小川さんは重要な教訓を得ました。
「プロに行く選手には“謙虚さ”と“学ぶ姿勢”が必ずある。
自分より下の人にもアドバイスを求める、その姿勢が隙がない」。自身も裏方として学び、協調性や謙虚さといった社会で生きる上で不可欠な力を身につけていったのです。
「車を売る」から「用具を届ける」へ
社会人として小川さんが入社したのは、九州三菱自動車販売株式会社の野球部。
ここでは「都市対抗予選よりも納車が優先」「ヒット打つより1台売れた方が喜ばれる」という事情の中で、営業成績と野球を両立させる日々を送りました。
ディーラーからメーカーへステップアップし、「車売って会社に貢献した方が評価された」と笑いながらも、営業の厳しさを通じて社会人力を培っていったと語ります。
プロ野球への未練を断ち切り、28歳で野球からも一般企業からも身を引いた小川さん。
彼が次に選んだ道は、自身の幼少期に野球用具が手に入らなかった経験から生まれた
「同じ環境の子どもたちに無償で用具を提供する活動」でした。
立ち上げ当初はコロナ禍で「“今やることじゃない”と心無い声もあった」と明かしますが、「大多数はそんなことなかった」と、迷うことなく前向きに歩を進めます。
プロ野球球団や企業、一般からの寄付で集めたグローブを中心に、「直接手渡しで届けることが喜ばれ、やりがいにつながっている」と語る彼の表情には、充実感がにじみ出ていました。現在では、国内に留まらず、ベトナムやウガンダ、カンボジアといった海外にも活動を広げ、「野球は日本だ、と世界が思えるようにしたい」と熱い展望を口にします。
「野球を始めるきっかけを作るために親子キャッチボールイベントも続けていく」
自身の野球人生で得た経験と教訓を胸に、小川健太氏は今、新たなステージで子どもたちの未来を照らす活動に情熱を注いでいます。
「自分にできることを地道に続けたい」。
その言葉は、野球を通じて培った彼の人間力と社会貢献への強い意志を象徴していました。